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2016年事件簿 その2 うつ病で休職しました(その後、無事復帰)。

前の記事に引き続き、昨年の振り返りの第2弾です。
前回よりちょっぴり重いテーマになってしまいますが、タイトルの通りです。

実は昨年、うつ病を患ってしまい、数か月間休職しておりました。

現在、まだ月イチくらいのペースで病院には通っていますが、症状はすでにかなり回復して、復職して普通に働いています。
むしろ病気にかかる前より気持ちが落ち着いているほど。

「原因は何?」って聞かれがちなんですが、「コレだ!」というものがあったわけではありません。
数々の出来事の積み重ねの結果だと思っています。

今思うと2年ほど前から不調だったんですが、ごまかしごまかし生活してました。
ごまかしているうちにそのうち元気になるはずだ、と自分に言い聞かせて。

でも、ダメでした。

症状

割と「あー、今日仕事行きたくないなー、うつだわー」みたいな感情って結構一般的だと思うんです。
でも、「うつ病」はこれとまったくレベルが違いました。
気持ちが落ち込んでいる、ということなんか自覚できないんです。

自分では落ち込んでいるつもりはないのに、何に対しても楽しいとも思えないし、興味を抱けない。
以前は大好きだった曲や映画やTV番組や本その他いろいろに対して、まったく感情が湧いてこないんですね。

食欲も急になくなって3日間ほとんど食べずに5kgやせたと思えば、逆に急に異常な食欲になってリバウンドしたり。

とはいえ、仕事は仕事で普通にやっていました。

だからまあ、大丈夫だろう、そのうち元気になるだろうとと。

が、2016年春ごろから状態が良くない方向に。

ある日、仕事中大好きなコーラを買いに自動販売機の前に行くと、どれがコーラだかわからない。売っている商品がすべて同じに見える、というようなことがあったり。

そういった日常的な不調に加えて、希死念慮が非常に強くなってきてしまって。
自分の場合ですが、「死んだら楽になれる」とか考えるわけでなく「死ななくては」という義務感に近い気持ちになってしまい、ある真夜中(家族はみんな寝てる時間)ベランダでのたうち回りながら、「ここから飛び降りるかどうか」を数時間泣きながら悩んだりしてしまいました。

これはさすがに自分でもヤバい状態だな、と自覚しました・

その数日後、すぐに会社に休暇を申し出たのでありました。

休暇が始まり、休むことに徹しました。
すこし休めば復調すると思っており、病院に行くつもりはありませんでした。
今思うともっと早く行くべきだったんですが、当時は「『うつ病』歴があると今後の社会生活に不利になるのでは……」という考えが膨らんでしまって、病院に行くことが怖かったんです。
(「死のう」と考えている人間が、反面「今後の社会生活」を考えているってのは矛盾してますよね~)

しかし、10歩も歩くと息切れして立っていることすらできなかったり、3日間くらいベッドから出られなかったり(”何か”が辛くて起き上がれない。”何か”の正体はよくわからない……)など、どう考えてもよくない状態だったので、勇気を出して近所のメンタルクリニックに行きました。

結果、やっぱり「うつ病」で、最短でも4か月は休むべきという診断でした。

その診断を会社に伝えて、「休暇」を「休職」に変更してもらいました。

回復まで

症状が重い時って本当に何にもできないんですよ。
「家で寝てるだけだから楽だろう」とか思われるかもしれませんが、寝てるだけのことですら本当に辛いんですよね。

寝てるだけなのに異常な疲労感。そしてそんな自分に対しての罪悪感。

考える力も低下しているので、本を読んだりすることもできない。
驚くほど本当に何もできないんですよね。

なので、最初の一か月はとにかく何もしませんでした。
会社のことも仕事のことも何も考えないようにしました。

すると、やはり少しづつ回復して家事をやったり、ちょっと外に出かけたりできるようになりました。

一日中、図書館で本を読んだりしていみたりもしました。
(このころ好んで読んでいたのは東洋哲学です。特に初期仏教や古代インド哲学がなぜか面白く感じて仕方なかったですね)

そんな暮らしを続けていたら、ある日とつぜん、「会社に行きたい! 仕事をしたい!」という気持ちが急激にあふれてきて、それが何日も続いたんですね。
なので、メンタルクリニックの先生に相談して、復職する運びとなったのでした。

復職の初日は緊張しましたね。
数か月も休んでいた自分をまわりがどう見るのか。
仕事はちゃんとできるのか。

でも、それはまったくの杞憂で、数日もしたらすべてが以前と変わらない日常として回り始めたのでした。

現状

いまは月イチで通院して薬を飲んでますが、元気に仕事してます。

ですが、内面的なところでやっぱり変わったような気がします。

もともとちょっと悲観的な性格だったんですが、その悲観的な部分がちょっとだけ横に置かれた、と言いますか。
楽観的になったわけではないです。
悲観性との付き合い方がうまくなった感じですかね。

あと、読む本のジャンルが完全に変わりました。
東洋哲学から始まった哲学への興味が、西洋哲学にも興味が広がってその流れで数学(昔は哲学の一部だったんですよ~)が面白くなり、数学史を紐解いていくうちにコンピュータへとつながっていっちゃいました。
現職はITエンジニアなので結果的に自分のところに戻ってきた感じですね。

一番良いのは希死念慮がまったくなくなったことですね。
いまとなっては死にたいなどと1mmも思わなくなりましたが、当時は確実に死にたい気持ちに支配されていました。
つまりうつ病は下手をすると死に至る病気だということです。
本当に恐ろしいことです。

だから、うつ病を患った結果自殺した、というようなニュースを見ると、本当に悲しくて悔しい気持ちになります。
逃げて良いよ! 後のことなんか考えなくてもいいよ! って。

 

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2016年事件簿 その1 たくさんの別れ

2017年になったので、昨年の振り返りをしたいと思います。

2016年には年齢がついに40才台に乗ってしまったんですが、それが霞んでしまうくらい様々なことがありました。

特に大きな変化が2つありましたので、今回は精神的に重くない方を書きます。
こちらはひとつの大きな出来事のことではなく、「色んな場所でたくさんのお別れがあった」ことです。

会社でのお別れ

私が今働いている会社は中途で入社し、現在11年目になります。
大きな会社ではないので、社員全員の名前と顔が一致するような中小会社です。
でも、悪名高いIT業界ということもあり離職率もそこそこ高くて、誰かが退職するのを見送るのにはもう慣れてしまってはいました。
そんな中でも「転職・退職しなさそうな人たち」というのが何割かいるもんで、長く居る人同士では仲間意識がけっこう高いわけです。

ですが、2016年はそういった「転職・退職しなさそうな人たち」と思われていた人たちが同時多発的に何人も会社を出て行ってしまいました。

10年以上の付き合いがある人たちが連続して辞めていく、ってのは、思っていた以上に寂しいもので、しかも「じゃ、オレがこの会社に残っていたいと思う理由は何だろう」と言った問題を突き付けられている気もしてきます。

ただ、辞めていった大部分の人が「良い転職」(例えば望んでいた仕事ができる、とか年収がグッと上がった、とか)をしたのが良かったです。
これは私にとっても救いですね。

子供まわりのお別れ

これは微妙に自分のことではないですが。

息子が小学校に入学したばかりの時に入ったサッカーチームももう5年目となり、もうじき最終学年の6年生になろうとしています。
親としては試合の時に車を出したり、とかいろいろ手伝っているので我が子以外のチームメイトの子たちに対しても当然思い入れがあるわけです。

あと一年とちょっとでみんなともお別れだな、寂しいな、とか最近思っていたらですね、なんと最終学年を待たずして2016年末で何人かがチームを去る、ということになりました。

理由は「中学受験」です。

本気で中学受験に臨む子は、ほとんどの時間を受験に費やす生活になるようで、サッカーとの両立というのはかなり難しいとのこと。

まあ、近所に住んでるし、日常生活の中ではしょっちゅうその子たちとは顔を合わせるんですが、もう同じフィールドに立つことがないかと思うと寂しいの一言ですね。

両親とのお別れ

お別れ、というより「会いに行くのがかなり大変になった」んです。

私の両親は30年以上、東京都内でお店を営んでいたんですが2016年、ついにお店を畳むことになりました。

商売的にはそれなりにやれていたのですが、年齢的にそろそろキツくなってきたというのと、田舎に住んでいる父方の祖母がすこし認知症気味になってきたということが重なり、田舎に帰ることを決心したのです。

で、その田舎というのが青森県なんですね。

これまで東京にいたので気が向いたら会いに行けてたんですが、青森となるとそうはいきません。
青森市や弘前市など中心部だったらまだいいんですが、津軽地方の西の方で、世界遺産の”白神山地”や津軽富士”岩木山”と言った堂々たる山々に囲まれている地域。
行くのには時間とお金が結構掛かるんで、そうそう行けないです。

ただ良かったこととしては、母親は千葉県生まれで就職してからはずっと東京暮らしだったので、引っ越す前は不安みたいでしたし、こちらもかなり心配していましたが、実際引っ越してみるとやはり住めば都。
「毎日旅行に行っているみたいよ~♪」なんつって、楽しそうに暮らしているようです。
また、息子夫婦(私の両親)が帰郷したことで、祖母の認知症も軽くなっているとのこと。

寂しいけど悲しくはない

とまあ、いろいろなお別れが2016年には重なってしまいましたが、去っていった人たちにとっては新しい世界に飛び込んでいった形だったので、寂しいかと問われたら「YES」と答えますが悲しいかと問われたら「NO」ですね。

もうひとつの大きな変化については次の記事に書きたいと思います。

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人生初のインフルエンザの備忘録

わたくしこと石之介、これまでの30数年の人生の中でインフルエンザに罹ったことがありませんでした。
同年代だと周りにもおなじような人も多いし、家族全員インフルエンザでもいつも自分だけは罹らないので、「自分はもうインフルエンザには無縁の体質なのであるなぁ」と確信を持っていたんですが……、2016年ついにこの時が!
人生初のインフルエンザ!

正直な話、これまでインフルエンザの症状をなめてました。
罹ったことある人すべてに謝りたいと思います。ホントすいやせん。

風邪の延長くらいなんだろ、くらいに思ってたんですが、辛さのレベルがぜんぜん違うんですね。
せっかくなので、記録しておきたいと思います。

【1日目 ちょっと寝不足だわー】

朝起きるのがちょっとだるいなーという感じではあったけど、ただの寝不足だと解釈しもちろん普通に出社。
昼過ぎから体が妙にだるいので、昼休み誰も使っていない会議室で仮眠する。1時間まるまる寝てもまったく眠気が取れない……。
この時点ではインフルエンザなんかまったく念頭になかったため、なんの疑問も持たず、社外の打ち合わせに参加。
その後はあまりに体がだるいので、定刻前だけど直帰させてもらった。

【2日目 微熱でお休み】

朝から37度前半の微熱が出る。
社畜魂を全開で出社しようかと思っていたけど、それほど忙しくない時期だったために休みをもらう。
微熱以外で大した症状がなかった。ちょっとだるいくらい。
ちょっと寝れば治るだろうと思ったので、会社には「この調子なら明日には出社できまっせ」連絡をする。

【3日目 超辛い。そして診察へ】

朝、全身の倦怠感がひどく、寒気もひどい。
体中に謎の痛み。
頭痛もひどく、頭全体が痛くなるパターンと、いきなりハンマーか何かでいきなり殴られたように痛くなるパターンがある。
全体的にこれまでに味わったことのないほど辛い。
熱は38.5℃くらい。辛さの割りに低いと思った。

さすがにインフルエンザかもと思い、病院に駆けつけることに。
※駆けつけた、と言っても布団から出るところから家を出るだけでも非常にキツく、やっとの思いで到着。
この時期は病院も混んでいて、受付から診療まで1時間半ほど待つことになるんですが、この間、メチャクチャ辛かった。
床に寝転がってしまいたい!
ずっとその気持ちを我慢しながら、椅子に必死にしがみついてました。

そしてついに診察の順番が回ってきて、診察は一瞬。

先生「インフルエンザかな? 検査する?」
石之介「お願いします。(検査しない、という選択肢があるのか…!?)」

結果は、インフルエンザA型。

「これがウワサの! 納得の辛さ!」というのが一番最初に感じたこと。

その後、すぐに処方箋を持って薬局に行くと、吸い込む薬をその場で飲ませてくれた。
(後で調べたところ、イナビルという薬らしい)

必死の形相で帰宅し、そのまま寝てしまいたい衝動を抑え、会社の関係各位に何件か連絡。
その後はもうすぐにベッドでお陀仏。それはもう見事なホトケっぷり。

【4日目】

熱がだいぶ引いたので、すっかり治った気になって、少し動くとだるさと頭痛で辛くなる。
普通の風邪だと、熱が引くとこれまでの辛さがウソのように楽になるけど、インフルエンザの場合、熱以外はそのままという感じ。
もう寝てるしかなかった。

【5日目以降】

頭痛がぜんぜん治らなくて辛い。
ネットで調べたら、インフルエンザあるある、っぽい。
下手したら10日以上続くこともある様子。
先が思いやられるぜー。

ということでまだ実は完治していないんですが、寝ているのに飽きてきたし今回のことを記録してみました。

ホントに辛いので、皆さんもお気をつけ下さい。

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もうひとつのお別れ

娘は明日で保育園生活が終了になります。

園の先生方やクラスメイトの親御さんたちなど、たくさんの人たちとお別れになってしまいます。

寂しいですが、それはそれで仕方ないことですし、当然分かっていたことなので、すんなりと受け入れています。

ですが、ここに来て次に小学3年生になるお兄ちゃん周りで、思わぬお別れがやってきてしまいました。

クラスメイトであり、サッカーチームのチームメイトでもある親友が引っ越すことになってしまったのです。

しかも、その子のお父さんはチームのコーチの一人でもあり、その子もプレイヤーとして中心人物の一人だったので、チーム的にも相当の痛手です。

さらに、そのコーチ、石之介に対してもサッカーやフットサルへ誘ってくれたり(しかもサッカーのスパイクをもらったり!)、と家族ぐるみで仲良くなっていけるのかなー、という感じだったので、このお別れはとても寂しいです。

でも、先週、地元でちょっとしたサッカー大会があり、その子にとってこのチームでの最後の大会になったのですが、なんと準優勝!

その時点ではまだその子がチームを去ることを知らされていなかったのですが、図らずも最後に華を持たせることが出来て、非常に良かったなと。

とはいえ、やっぱり不意打ちの別れは寂しいですね。

けっこう重く心に刺さっている感じがします。

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石之介の上海生活 序章

どうも。石之介です。

昨年から中国づいている石之介ですが、この度、再来月から上海へ住むことになってしまいました。

ここ最近は月イチくらい上海へ行ったり来たりしてたのですが、なんだかんだとありまして上海の協力会社へ出向という形を取ることになりました!

 

でもウチの会社は小さい会社なので、海外赴任者を出した前例はありません。

だから人事も総務も大騒ぎです。

 

出向と言っても協力会社から事務所を借りるだけで、実務は石之介ひとり。

言うなれば起業に近い形。

ひとり!

異国の地で、たったひとり! ワーオ!

 

どうなるかがまったく見えない!

 

なので、まずは家族は連れて行きません。

つまり単身赴任です。

完全なるひとり!

 

それに実はワタクシ去年の上海出張までただの一度も日本の外に行ったことなかったんです。

なのに海外出向なんて!

(それに、これは秘密だけど、ワタクシ英語も中国語もできないんですよ)

 

もうこれはどこからどう見ても、逆境中の逆境です。

逆境×5くらいです。

社内からも『え? マジで言ってんのソレ』『信じられない!』『バカじゃないの!』など励ましの言葉をたくさん頂いてます。

 

不安たっぷりの上海生活になりそうですが、まあ走りながら考えるしかないよね。

準備の様子などは随時このブログで報告していきます!

 

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図らずも同窓会

お久しぶりです。石之介です。

仕事が忙しすぎて文章の書き方を忘れてしまい更新が滞っておりました。

が。

ここ最近、疎遠になっていた方々と久しぶりに顔を合わせる機会が多く、そして意外とこのブログを読んでくれているということを知ったので、気持ちが復活!

 

で、タイトルの件です。

先週、7年ほど前に退職した会社の方々と久しぶりにお会いしたんですが、会う前は「数年も会ってないから、話が合わないんじゃないか」とかなり不安でした。

そして実際にみなさんに会った瞬間「あれ?知らない人ばっかりだ!」ってパニックになったのも束の間、5分くらいしたら当時の関係性みたいな感覚がワッと体に戻ってきて「あれ?知ってる人ばっかりだ!」となって急に安心感に包まれる、という不思議な感覚に襲われました。

いや、不思議でした。

 

その会社には実は2年ほどしかいなかったんですが、体感的にはもっと長い間お世話になった感覚。

なぜなら出版業界 → IT業界という異業種の転職をした会社だったので、慣習の違いとかに苦しめられたんですよね。

なので、当時の先輩や同僚には非常にお手数おかけしちゃったな、と。

ということで、せっかく再会したしまた繋がりたいので、IT業界的な感じで、色んな人に声掛けてみました。

 

「FacebookとかTwitterとかやってます?」

『やってないよー』『ああー、やってないね』『オレそういうの苦手です』

 

こらー! IT!業!界!なのに!

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上海から帰ってきてから2ヶ月のご挨拶。

お久しぶりです。

石之介です。

上海から帰ってきてすでに2ヶ月弱過ぎてしまいました。

当初、上海での生活を面白おかしくこのブログで綴って行こうと目論んでいたのですが……。

ブログを書くどころか約70日の滞在期間で休日は1日しか取れず。

プロジェクトがもうホント大変で大変で。

大変すぎて、若手社員の精神状態がやばくなってプロジェクト途中なのに強制帰国させたりとか色々ありました。

こう書くと「中国での仕事は大変なんだな」と思われちゃうかもしれないけど、日本で同じことやっても同じくらい大変だったはずですので、中国が原因ではないです。

むしろ、中国の人に対するイメージは良くなりました。

今回のプロジェクトで何人もの中国の人とお会いしましたが、良い人率、すごく高かったですよ。

 

で、大変な仕事を終えるも、帰国後はちょっと燃え尽き症候群的な感じになっちゃって、1ヶ月くらいは本当に何もする気力が起きず。

ブログを書く習慣もすっかり体から離れてしまっていました。

 

でも、そこはそれ。

週刊少年ジャンプで育った熱い魂を持つ男としてはいつまでも腑抜けでいるわけにはいかないんだぜ。

つまり大復活っていう寸法よ。

 

会社にも魂が復活したのがバレてしまい、すっかり激務の毎日が戻ってきております。

なので、このブログでもこれまで通りイチサラリーマンの何でもない生活を引き続き綴っていきます、とここに表明するのであります。

 

余談ですが、小学生の頃から買い続けていた週刊少年ジャンプ、ついに購読するのを止めてしまいました。

だって息子に

「上海に行っている間はオレの代わりにお前がジャンプを買うのだぞ!」

と約束したのに、1冊も買ってないんだもん!

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ちょっと遅いですが、あけましておめでとうございます。2012年。

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ちょっと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!

2012年。辰年。

なんと年男です! そうオレはドラゴンなのです。

ならば今年は昇竜のごとく天に向かって昇っていくのだ!と決意したいところですが、なんかちょっと違和感。

去年は誰にとっても転機となるような大きな出来事がありましたが、それは自分も例外ではなく。

人生ってホントままならないなー、と。

でもそれは『悪いコト』だけではなく『良いコト』や『良いか悪いかもわからない新しいコト』も運んできたりする、ままならなさなんだよなー。

なもんで、今年はあえて目標を持たないことにしました。

やらければいけないこと、やりたいこと、は定義しないでも次々やってくるので、敢えて視野を狭めて目の前のことだけを真剣にやることに終始したいと思います。

目指す姿は昇竜ではなく、地を這う地竜。

地竜って字で書くとかっこいいけど、ミミズのことなんだよね。目の前の土を掘ることしかできない。

でも、土壌を豊かにする益虫なんだぜ、ミミズは。命の源だぜ。

かのクレオパトラも神聖なる物として扱ったくらいなんだぜ。

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さあ、今年も走っていくぜ!

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オレが幕張に住んでいる理由

幕張に住んで3年ほど経ちます。

その前は稲毛海岸(幕張から2駅となり)に3年ほど住んでいましたので、千葉市美浜区に住んで6年ほどになります。

この地域、とても気に入っています。

幕張ってかなり遠いってイメージがあるらしく、わりと頻繁に「何で幕張(なんて遠い場所)に住んでるの?」なんて聞かれたりするんですが「ヨメの実家に近いから」なんて返答しています。

でも、ホントの理由は他にあります。

それは『海が近いから』です。

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       ※チーバくんで言うとノドあたりが幕張。

そもそも、ヨメと結婚した時は西荻窪に住んでいて、婚姻届も長男の母子手帳も杉並区のものだったりするのですが、子供が生まれる前に経済的な理由で次の住居を探すことになりました。
西荻窪に住み始めた当時は、DINKSってことでちょっと高めの家賃の場所に住んでしまっていたんですね。(今思うともったいない)

『東京に通える範囲で自然があるところ』がいいな、とか言いながら色んな地域を巡りました。

あきる野(東京西部)。自然が豊富なところに惹かれたけど、さすがに職場(当時は東京駅近く)まで遠すぎるので断念。

横浜。素敵だけど家賃の相場が思ったより高くて断念。

鎌倉。職場が遠すぎるので断念。今でも憧れはあります。家賃相場もやっぱり高いよね。

浦安。ヨメと付き合い始めた頃、ヨメが住んでたので馴染みある場所。でもマリナーゼとかいう言葉が流行るほど当時は人気地区になってて、家賃相場が急上昇。断念。

とまあ、なかなか憧れと現実(=お金)が折り合わなくて途方に暮れる日々が続きました。

そんな時「住む場所探し」とは関係なく、夜勤明けの朝、急に海を見たくなったのでふと『稲毛海岸』に一人で遊びに行ったのです。  

なぜそんな行動を取ったのかはわかりませんが、おそらく夜勤明けだったから妙なテンションになっていたのでしょう。

当時はこの辺りの土地勘がゼロだったので、『稲毛海岸』駅を降りると目の前には海が!というのを期待していたのですが、まったくそんなことはなく意外と遠い距離を夜勤明けの汗臭い体でフラフラと海岸があるっぽい方に行きました。

徹夜明けの自分には大冒険でした。

集合住宅地(※1)に迷い込み、だだっぴろい広場(※2)を抜け、雑木林(※3)を抜けると、ついに海岸に到着。

(※1)高浜団地 (※2)稲毛海浜公園 (※3)海岸沿いの防風林

堤防の上から達成感を感じつつ、海を眺めた時に思いました。

「ああ、オレこの海の近くに住もう」

それは村上春樹が野球の試合を見ている時に突如「あ、小説書こう」と思ったのに似ています。ええ。似ているのです。天啓です。

その勢いでヨメを説得して稲毛海岸に住むことになったのです。

稲毛海岸のマンションは場所的にはとても気に入っていたのですが、異常なほどの湿気に耐えかねて引っ越すことになり、幕張のマンションに越して今に至ります。

それにしても、未だに『海に近い』ということに日々喜びを感じています。

気まぐれにふらっと海を見に行けるのが最高。

あの時直感に従ってホント良かった。

※まあ、工場群が見えちゃってる海岸ってのは賛否両論あるとは思いますが。

そんな中、今日は茜浜でお弁当を食べました。(震災の影響でしばらく閉鎖してたのですが、いつのまにか開放されてました。)

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▲スーパーで買ってきたお弁当。娘は中華弁当。息子は赤飯(単品)と春巻き(単品) 。なんじゃそのチョイス。
 ヨメは写ってないけどカツ丼食べてます。

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▲夕暮れをしんみりと。
 と思いきや、堤防の下のテトラポッドにいるフナムシを「気持ちわりー(笑)」  とか言いながら探しているの図。

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35歳になっちゃった。

去る8月27日に35歳になっちゃいました。

つまり、30代後半戦が始まったということです。

やばい。

本格的にやばい。

もっと大人になっていたはずなのに。

週刊少年ジャンプを欠かさず買うなんて、していないはずだったのに。

でも祝ってくれる家族がいるだけで、超幸せだよね。

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誕生日ケーキは去年とおなじく石之介家御用達のル・パティシエ ヨコヤマでございます。

で、去年のエントリ内で「会社作る」とか言ってましたが、今どうなっているかといいますと。

一応会社としての形だけは作ったわけですが、 何も進んでいない……、というわけでもなく
実はこっそりmixiアプリをリリースしてたりするわけです。

でも習作のレベルを超えておらず、ちょっと恥ずかしいのでここでは敢えてお伝えしていなかったのであります。

その制作を通して技術的なレベルがけっこう上がったので「これからガンガン作って行くぜ!」と思っていた矢先、本職の方の仕事が超激務となって、おろそかに。

そして今日に至るというわけです。

当初は3月にひとつ、なにかしらのアプリケーションをリリースしていく予定だったんですが、結果的に1年に1つ。
しかも利益ほとんどなし。(ゼロではないです)

うーん。いかん。これではいかん。

これでは何も始まらない。

ということで、30代後半戦とオレの会社第二シーズン、頑張るぜ。明日を、明日を変えるのだ!