ツリーの飾り付けと、文化資本

 本日、ヨメの実家で庭の木に、クリスマスの飾り付けをしてまいりました。
 いつもお世話になっているので、不器用なワタクシですが一生懸命やってみましたよ。
 
 飾り付けをしたのは、お店の入り口の前にある一本だけなのですが、家全体がかなり華やかになった印象。
 楽しい。
 
 そういえば、石之介の実家では、こういうことやらないな。
 クリスマスどころかイベント事を行った記憶が一切ない。
 
 聞くと、ヨメの実家はお店を始める前から季節のイベントを大切にするような家庭だったとのこと。
 だから今回もお店のための飾り付けというワケではないようです。
 
 そんな話を聞いていたら、ふと『ヨメにはデザインが出来て、石之介が出来なかった』(このエントリにほんのりと書いてます)理由はこういうところにあるのかも、と思いました。
 
 お義母さんは、日常生活に華やかさを取り入れていくタイプ。
 食器なんか特にこだわりがあったり、(伊万里生まれだから?)
 ヨメがボサッとした格好していたら「ちゃんとオシャレしなさい」と怒ったり。
 オシャレな人なんですね。
 
 そういった家庭環境で育ったヨメは、石之介より『良いデザインのもの』を当然目にしてきたはず。
 それが石之介とのデザイン能力の差となっているのではないかな、と。
 
 あれ。
 コレが内田樹さんの『街場の現代思想 (文春文庫)』で書いてあった「文化資本」ってヤツじゃないのか。

「文化資本」ってのは、ざっくり言うと、家庭(育った環境)で”自然と”身に付いた趣味や教養やマナーのこと。
 例えば音楽家の家庭の子が絶対音感を身につけていたり、茶道の家元で育った子は立ち振る舞いが美しい、とか。
 
 これらは、いわゆる「育ちが良い」とか「センスがある」みたいな言葉に収められちゃったりしますが、実は「無意識で行われた学習」(=”自然と”)によって身につけた能力です。
 
 で、この「文化資本」の残酷な真実。
 
「文化資本を持っている本人」は”自然と”身に付いていた能力であることから、その能力の対象に対してそれほど執着していないことに対して、「文化資本を持ちたいと思っている人」はその能力を身につけようとすればするほど、その余裕のなさが文化資本の獲得を遠ざけてしまう、ということ。
「成金が、金持ちぶってみるけど、趣味が悪くて逆に痛々しい」みたいなことです。

 切ないですねー。
 デザイナーになりたがっていた昔のオレを慰めてあげたいぜ。
 
 まあ、そんなことを考えながら飾り付けたツリーです。ご覧下さい。
20091128_light
 ▲うん! ちゃんとキレイ!
  青と白って上品ね。

ツリーの飾り付けと、文化資本” への4件のフィードバック

  1. マーカス・バッキンガムによれば、才能っていうのは
    自然にそれができる「習慣的な行動パターン」って
    ことみたいです。
    あっ、ダメ押ししちゃったかな (^-^;
    でも、ツリーはとっても綺麗ですよ!

  2. ダメ押し大歓迎です(笑)
    むしろ、あきらめた自分が救われます。

    なるほどなるほど。マーカス・バッキンガム。
    ちょっと調べてみたら、かなり面白そうですね、「強み分析」↓。
    http://sf1.strengthsfinder.com/ja-jp/homepage.aspx
    あ、でも本買わないといけないんですね、コレ。
    ヨメに頼んでみます。

  3. いや、でもね。
    一方で、味のあるものが作れる人ってのは、実はそういう人なんですよ。
    得意じゃない人。
    すんなりできる人のものには、淀みというか苦味がない分、スルッと
    し過ぎてるんですね。
    だからわざと無茶なことをやって、無理矢理味を出すというか。
    桑田佳祐って、もとからあんな声だったわけじゃなくて、大酒呑んで
    枕に向かって大声出し手、声帯を潰したみたいですよ (^-^;

  4. なるほど。
    それは燃えるシチュエーションです。

    でも、今考えると、自分にはそこまでやりきる執念がなかったのかもしれないです。

    それにしても離れてみて思うのが、「面白いけど大変」という言葉がホントに似合う仕事ですよね。

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