文化資本の話の続き、と終わらない憧れ

 前回の続きです。
 
 残念ながら、『文化資本』は元々持っている人のみが持つことが出来るモノであって、後から身につけようとしても、その「後から身につけよう」とする姿勢がすでに非文化的であって、持っている人と持っていない人の間には決定的な差が出来てしまいます。

 ですが、文化資本が『資本』として成り立つ為には、自分たちみたいに「後天的な努力によって身につけようとする人」たちがいて、はじめて成り立つのです。
 どういうことかというと「ああ、その能力が欲しい。欲しいよ〜」って言ってるワタクシが、それをもともと持っている人の価値を高めてるんです。
 つまり宝石と同じです。欲しい人がいるから価値が出る。
 
 切ないですねー。
 見ようによってはかませ犬。
 もうちょい良い感じで言うと、御神輿かつぐ人です。御神輿に乗りたいのに。

 じゃ、ワタクシのように希望する『文化資本』を持っていない人はどうすればいいんだろう。
 って当然思います。
 
 これはもう、あきらめるしかないのか。
 
 そう。あきらめるしかないんじゃない。
 って今だから、そう言っちゃいます。
 身も蓋もありませんよ。ええ。
 
 ただ、そんな風に言えるのは自分でも「けっこう頑張ったな」と思えるからであって、その能力を持っていないことを努力しない言い訳にはしない方が、幸せだと思います。 
 
 気持ちよく「あきらめたー!」って言える心持ちを味わえるからです。
 ドラゴンボール最終巻であの名台詞「がんばれカカロット お前がナンバーワンだ!!」を言った時のベジータのようです。
 またはジョジョ(5部)最終巻の「運命とは『眠れる奴隷』だ……オレたちはそれを解き放つことができた……それが勝利なんだ……」を言ったブチャラティのようです。
 
 さらに言うと、その努力をしていた頃(自分で「努力した」っていうのもどうかと思いますが)を思い出すと、なんだかちょっと甘酸っぱい気分になれる。
 それも悪くないです。
 
 でもこれらは石之介の個人的な感傷であって、結局『文化資本』的な視点で言うと、解決していない。
 まんまと資本の糧になっているだけという結果。
 
 でも、いいんです、それで。
 そういうもんなんです。

「そういうもんなんです」を受け入れると、あら不思議。
 以前より心に余裕が出来て、けっこう幸せ。
 逆に堂々と言えます。
 オレ、いまでもデザイナーに憧れてるぜ、と。(やらないけど)

(補足)
 ところで『文化資本を持っていない自分が許せん!』って人は、新しい『文化資本』作るしかないんじゃないかなって、テレ東のソロモン流『広瀬光治』見ながら思いました。
 この方『ニット界の貴公子』と呼ばれてますが、そもそも彼の登場以前に『ニット界』なるものが存在していたのか、ということ。(もちろん編み物する人はたくさんいたでしょうけども)
 つまり彼本人が『ニット界』というフィールドとともに『貴公子』の座を創出したんだと。

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